くくり直し

ルーミス大佐が第3次セミノール戦争の終わりを申告したとき、100名のセミノールだけがフロリダに残っていたと信じられていた。1858年12月、残っているインディアンを西部へ動かすための別の試みをした。1859年2月15日、合計して75名のセミノールの2つの団が来て、西部に出発した。しかし、まだ、セミノールはフロリダにいた。サム・ジョーンズの団は、フロリダ南東部に、マイアミとフォートローダーデールからの内陸部で生きていた。陸軍と民兵はその投資信託 を見つけていなかったが、チプコの団はオキーチョビー湖の北に住んでいた。個々の家族は、南フロリダの沼沢地の向こう側に点在していた。戦争が公式に終わって、残っているセミノールが静かなままであったので、民兵は家に帰り、正規の陸軍部隊を再編成した。セミノール戦争によって造られた砦のすべてが使用を中止され、なにか使用可能な材料のために、入植者たちによってすぐにはぎ取られた。1862年、州は、南北戦争でセミノールたちを中立に保たせようと試み、援助の約束するためサム・ジョーンズに連絡した。州は約束を最後までやり通さなかったが、セミノールは別の戦争で戦うことに興味がなかった。1868年のフロリダ憲法は、州下院に1議席、州上院に1議席をセミノールに与えたが、セミノールはその地位に就くことはなく、1885年の議会でこれらの部分を削除した[87]。 ^ Milanich ^ アラチュア・セミノールは、少なくとも第3次セミノール戦争まで個々のアイデンティティを保有していた。カウキーパーは1784年に彼の甥、キング・ペイン(en:King Payne)によって引き継がれた。ペインは1812年にジョージア民兵によるセミノールへの攻撃で殺された。彼の兄弟のボレク(en:Bolek)は、スワニー川までの一団の大部分を統率し、そこで彼らは1818年にアンドリュー・ジャクソンの戦役で擾乱された。次に、アラチュア・セミノールはフロリダ中央部へ移動し、1821年のボレクの死後、彼の甥ミカノピー(en:Micanopy)に引き継がれた。ミカノピーが捕らえられ西部に送られた後、彼の甥のビリー・ボウレグス(en:Billy Bowlegs、ホラタ・ミッコは、1858年に日経225 するまで残ったセミノールを率いた。Weisman. Pp. 22-24. Covington. Pp. 143. ^ アメリカ大陸の各地に点在する逃亡奴隷のマルーンもまた、恐らくはスペイン語のシマロン(Cimarrone)から借用された名前である。 ダコタ戦争(ダコタせんそう、英:Dakota War of 1862、他にSioux Uprising、Sioux Outbreak of 1862、the Dakota Conflict、the U.S.-Dakota War of 1862、Little Crow's Warの呼び方がある)は、アメリカ合衆国ミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、1862年8月17日に始まった、アメリカ合衆国と東部スー族、すなわちダコタ族の数隊との間の武装紛争である。その結果は、1862年12月26日にミネソタ州マンケートで38名のダコタ族を大量処刑することとなった。 1850年代後半を通じて、アメリカ合衆国による条約破りやインディアン管理官による年金支払いの遅れや不公平が続き、ダコタ族の中に飢えや窮状が拡がっていた。以前ダコタ族と交易があった業者達は年金を直接自分達に渡すよう要求した(管理官と交易業者の間の不公正な取引の可能性を生み出した)が、1862年の半ばに、ダコタ族は彼らの管理官であるトマス・J・ガルブレイスから直接渡してくれるよう要求した。業者達は信用貸しで物資をそれ以上供給することを拒否した。交渉は業者の代表アンドリュー・マイリックの敵意の結果、行き詰まりとなった。 1862年8月17日、5人のアメリカ人開拓者が狩りに遠征していた4人のダコタ族に殺された。その夜、ダコタ族の委員会は、その地域から白人を追い出すために、渓谷中の開拓地を襲うことに決めた。ダコタ族と開拓者、後にはアメリカ陸軍との間に戦いが続き、ダコタ族大半の降伏で終わった[1]。殺された開拓者の数について公式の記録は無かったが、300名から800名の間と推定されている。歴史家のドン・ハインリッヒ・トルズマンは、アメリカ史の中で2001年9月11日に同時多発テロが起こるまで、民間人の犠牲としては最大のものだったと言っている[2]。12月遅くまでに、千人以上のダコタ族がミネソタ州の監獄に収監され、12月26日に38名が処刑されたが、これはアメリカ史の中で1日に処刑された数では最大である。1863年4月、ダコタ族の残りはミネソタ州から追放されてネブラスカ州とサウスダコタ州に移り、その居留地はアメリカ合衆国議会によってFX された。 アメリカ合衆国とダコタ族指導者は、1851年7月23日にトラバース・デ・スー条約、および同年8月5日にメンドータ条約を結び、ダコタ族はミネソタ準州内の広大な土地をアメリカ合衆国に譲渡した。ダコタ族は金と物と引き換えに、ミネソタ川上流を挟み幅20マイル (32 km) 長さ150マイル (240 km)の居留地に住むことに同意した。 しかし、アメリカ合衆国上院はその条約の批准過程でそれぞれ第3条を削除した。約束された保証金の大半が届かず、インディアン管理局の汚職によって消えるか実質的に盗まれた。またダコタ族に補償された年金支払いはしばしば公益業者に直接渡された(ダコタ族が業者に負った負債を支払うため)。 ダコタ族の酋長リトルクロウ ミネソタが1858年5月11日に州に昇格したとき、リトルクロウに率いられた幾つかのダコタ族集団の代表がワシントンD.C.に赴き、条約の履行について交渉した。しかし、ミネソタ川に沿った居留地の北半分が失われ、ミネソタ州パイプストーンの採石場の権利も割譲させられた。このことはダコタ族社会にあってリトルクロウの立場に大きな打撃だった。 割譲された土地は開拓のために街区と小区画に区分された。これら小区画での林業や農業で周辺の森や草原が取り払われ、ダコタ族が行っていた農作、狩り、釣り、および野生米の採集といった1年間の流れが妨げられた。開拓者達が行う狩りによって、アメリカバイソン、アカシカ、外国為替証拠金取引 およびクマのような野生動物が著しく減った。ミネソタ州南部や西部のダコタ族は動物を食用にしていただけでなく、その毛皮を業者に売って物資を購入することにも依存していた。 合衆国が南北戦争の渦中にあったために、条約で補償された金の支払も行われなかった。ミネソタ川渓谷の土地の大半は耕作に適しておらず、狩りだけではもはやダコタ族の社会を支えられなかった。新しい白人開拓者に土地を奪われ、金の支払いはなく、以前の条約は破られ、さらに穀物の不作に続く食糧不足と飢饉でダコタ族の間に大きな不満が募った。1862年の夏を通じて緊張感が高まった。 1862年8月4日、北部シストワンとワーペトンのダコタ族集団代表が居留地の北西部にあるアッパー・スー管理局と会合し、交渉してうまく食料を得た。しかし、ダコタ族の他の2集団、南部ムデワカントンとワーペクテが1862年8月15日に資産運用 を要求してローワー・スー管理局に出向くと、要求は拒絶された。インディアン管理官でミネソタ州上院議員のトマス・ガルブレイスは、これらの集団に金の支払い無しで食料を分配しないように仕向けていた。 ダコタ族、アメリカ合衆国政府および地元の公益業者の会合で、ダコタ族の代表は公益業者の代表であるアンドリュー・マイリックに、ダコタ族を支持してくれうよう求めた。マイリックの答えは、「私に関する限り、彼らがひもじくても、草か彼らの糞を食わせて置けばいい」とつれないものだった。会合は直ぐに怒号の中に紛糾し、交渉は決裂した。 1862年8月16日、ダコタ族に対する条約の支払金がセントポールに到着し、翌日リッジリー砦に移された。しかし、それは暴力行為を防ぐには遅すぎた。8月17日、アクトン・タウンシップで狩りの旅をしていた4人のダコタ族若者が、そこで食料を盗み5人の白人開拓者を殺害した。その後直ぐに、ダコタ族の軍事会議が招集され、その指導者であるリトルクロウが開拓者を追い出すために開拓地への攻撃続行に同意した。 8月18日、リトルクロウはこの戦争で最初の大きな戦いとなるローワースー管理局の戦いで多くの白人開拓者を襲う集団を率いた。アンドリュー・マイリックは、管理局の建物2階の窓から脱出しようとしているところを発見されて、最初に殺された者の中に入った。後に見つかった彼の遺体には、口に草が詰め込まれていた。ローワースー管理局の建物は占領されて戦士達によって焼かれた。しかし、その建物を焼くために要した時間によって、多くの人々がレッドウッド・フェリーで川を渉り逃げ出すゆとりができた。ミネソタ州民兵と第5ミネソタ志願歩兵連隊のB中隊が暴動を鎮めるために派遣されたが、レッドウッド・フェリーの戦いで敗北を喫した。この2つの戦闘で少なくとも44名の市民と兵士の死亡が報告された[3]。 ダコタ族は最初の成功に満足して攻勢を続け、8月19日にはニューアルムの開拓地を襲った。ダコタ族の戦士達は川沿いにあって防御の厚いリッジリー砦への攻撃はしないことにし、その変わりに町に向かい、通り道にいた開拓者達を殺した。ニューアルム自体が攻撃されたときまでに、住民達は町の中央で防衛隊を組織し、短時間の包囲の間もダコタ族を寄せ付けずにおくことができた。しかし、ダコタ族の戦士達は防御線の一部を突破することができ、町の一部を焼いた[4]。その夜までに雷雨が来てダコタ族のそれ以上の攻撃を妨げ、ニューアルムは正規兵や近くの町からの民兵で補強され(当時リッジリー砦に駐屯していた第5ミネソタ志願歩兵連隊の2個中隊を含む)、住民は町の周りにバリケードを構築し続けた。 この間の8月21日にリッジリー砦はダコタ族に襲撃された[5][6]。ダコタ族は砦を奪取できなかったが、砦からニューアルムへ向かっていた救援隊が8月21日にダコタ族に待ち伏せされ、またリッジリー砦の戦いで防御に費やされた人力によって、アメリカ軍の戦力を大きく減らした。ダコタ族はミネソタ州南中部や当時のダコタ準州東部で農園や小さな開拓地への襲撃も行った。 これら襲撃隊に対するミネソタ州民兵隊による反撃を目指したが、9月2日のバーチクーリーの戦いで再度アメリカ軍の大きな敗北となった。この戦いはリッジリー砦から16マイル (25 km)のバーチクーリーで150名のアメリカ軍分遣隊をダコタ族が襲ったときに始まった。この分遣隊は生存者を発見し、アメリカ人の死体を埋葬し、またダコタ族戦死の居場所を報告するために派遣されていた。早朝の攻撃で3時間に及ぶ銃撃戦が始まった。13名の兵士が戦死し、47名が負傷し、一方ダコタ族は2人が戦死した。同じ日の午後、リッジリー砦から2040名の部隊がバーチクーリーで分遣隊を救援した。