繰上償還
ダコタ族はさらに北で、レッド川トレイル沿いの防御が施されていない駅馬車停留所や川の渡し場、ミネソタ州北西部やダコタ準州東部ではギャリー砦(現在のマニトバ州ウィニペグ)とレッド川渓谷のセントポールの間の交易ルートを襲った。この人口が希薄な地帯の多くの開拓者やハドソン湾会社など地元の会社の従業員が、現在のノースダコタ州ファーゴの南約25マイル (40 km)のレッド川屈曲部にあるアバークロンビー砦に
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を求めた。8月下旬から9月下旬の間、ダコタ族はアバークロンビー砦に数回攻撃を仕掛けたが、その防衛隊によって撃退された。
一方、レッド川の蒸気船や
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による交易は止まり、郵便配達人、駅馬車の御者および軍隊の伝令などがペンビナ、ギャリー砦、セントクラウドおよびスネリング砦などの開拓地に行こうとしている時に殺された。最終的にアバークロンビー砦の守備隊はスネリング砦から来たアメリカ陸軍の中隊に救援され、避難していた市民はセントクラウドに移された。
南北戦争という必要性があったために、繰り返し救援要求がおこなわれてやっと、エイブラハム・リンカーン大統領はジョン・ポープ少将を指名して、暴動を鎮めるために第3ミネソタ志願歩兵連隊と第4ミネソタ志願歩兵連隊からの部隊を率いさせた。ミネソタ州知事アレクサンダー・ラムジーもこの行動を援助するためにヘンリー・ヘイスティングス・シブリー大佐(元州知事)の支援を求めた。
大部隊が到着した後で、9月23日にウッドレイクの戦いという最後の大規模戦闘が起こった。第7ミネソタ志願歩兵連隊のウィリアム・R・マーシャル中佐の公式報告に拠れば、第7ミネソタ志願歩兵連隊の一部と第6ミネソタ志願歩兵連隊(さらに6ポンド砲)が壕や散兵線に均等に配置された。短時間の戦闘の後で、散兵線にいた部隊がダコタ族(この時は峡谷にいた)に突撃を掛け、圧倒的に打ち負かした。
シブリー遠征隊の市民兵の中には次の者達がいた。
ウッドレイクの戦いの直ぐ後、ダコタ族戦士の大半は9月26日にキャンプ・リリースで降伏した。この場所はダコタ族の269名の捕虜がヘンリー・シブリー大佐の指揮する軍隊に釈放(リリース)されたのでこの名がある。この捕虜は162名の混血と107名の白人であり、大半は女と子供だった。しかし、戦争犯罪人とされたダコタ族戦士の大半は、シルビーがキャンプ・リリースに到着する前に去っていた[7]。降伏したダコタ族戦士は11月に行われた
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裁判まで留め置かれた。
リトルクロウは9月のどこかで撤退を余儀なくされた。短期間カナダに留まったが、間もなくミネソタ地域に戻った。リトルクロウは1863年7月3日にハッチンソンの近くで、10代の息子と共にラズベリーを採集しているところを殺された。この二人は白人開拓者ネイサン・ラムソンの土地を彷徨っており、ラムソンは賞金稼ぎのために二人を撃った。その遺体がリトルクロウだと識別されると、その頭蓋と頭皮はセントポールで曝され、1971年までそのままにされた。リトルクロウを殺したことで、ラムソンは追加500ドルの賞金を認められた。リトルクロウの息子は死刑判決を受けたが、懲役刑に減刑された。
1862年12月初旬、303名のスー族囚人が軍事法廷で殺人と強姦で有罪とされ、死刑を宣告された。ある裁判は5分も要せずに終わり、被告に対して手続が説明されることも、スー族が法廷で陳述することも無かった。エイブラハム・リンカーン大統領は裁判記録を自ら照査し、アメリカ合衆国に対抗して戦争に参加した者達と市民に強姦や殺人の罪を犯した者達とを区別しようとした。
ミネソタ州聖公会の司祭で先住民族に対する合衆国政策の改革者ヘンリー・ホィップルは、リンカーンに寛大な処置を要請し[8]、リンカーンは264名の死刑を減刑し、残り39名の刑執行を許可した。39名の死刑囚のうち1人は刑執行の延期を認められた[9][10]。残り38名の囚人は1862年12月26日にマンケートで絞首刑に処せられた。これはアメリカ史の中でも最大の集団処刑記録となっている。
マンケートにおける集団処刑の絵
集団処刑は一つの処刑台を使い
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で行われた。連隊付き軍医が囚人の死亡を宣告し、死体は川堤の砂地に掘られた壕に集団で埋められた。しかし、それらが埋められる前に、「シェアダウン博士」という渾名の素性の知れない者が囚人の肌の一部を取り除いた可能性がある[11]。噂に拠ればその肌を入れた小さな箱が後にマンケートで売られた。
解剖学研究のための死体には高い需要があったので、何人かの医者は処刑後の死体を要求した。墓が暴かれ、死体は地元の医者達に分け与えられた。マーピヤ・オキナジンの死体を受け取った医者がウィリアム・ウォーラル・メイヨーだった。
何年か後に、メイヨはマーピヤ・オキナジンの死体をルシュールに運び、医者仲間の前で解剖した[12]。その後骸骨を洗い乾燥しワニスを塗って、自分の自宅兼事務所の鉄製ケトルに保管した[13]。マーピヤ・オキナジンや他の先住民の遺骸と識別されるものは後に、先住民墓所保護および送還法に従い。メイヨー・クリニックによってダコタ族に戻され、再度埋葬された[14]。
残る有罪とされたインディアンはその冬監獄に留められた。翌春、イリノイ州ロック・アイランドに移され、そこでほぼ4年間収監されていた。彼らが釈放されるときまでに、囚人の3分の1は病気で死んだ。生存者は既にミネソタを追放されていたネブラスカ州の家族の元に送られた。
ダコタ族集中キャンプこの
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、ダコタ族の1,600人以上の女、子供および老人が、スネリング砦近くのパイク島抑留キャンプに留め置かれた。生活条件はお粗末であり、病気がキャンプを襲って、300人以上が死んだ[15]。1863年4月、アメリカ合衆国議会は居留地を廃止し、ダコタ族との以前の条約全てが無効と宣言し、ダコタ族全てをミネソタ州から追放する処置を採った。この目的のために、州境界内で自由状態で見付けられたダコタ族には、1つの頭皮当たり25ドルの賞金が掛けられた。この法の唯一の例外は戦争の間も中立を守りあるいは白人開拓者に協力した208名のムデワカントン集団に適用された。1863年5月、生存者達は蒸気船に乗せられ、ダコタ準州南東部のクロウクリークに移動させられた。そこは当時に干魃に襲われた地であった。クロウクリークの生存者達は3年後にネブラスカ州のサンティー居留地に移された[16][17]。
この戦争の白人参加者、観察者および犠牲者による証言にはしばしば目撃証言が含まれていた。例えば、チャールズ・ブライアントが編集した『ミネソタにおけるインディアンによる虐殺』には、これらの出来事を目撃し生き残ったジャスティナ・クリーガー夫人のインタビューから採られた出来事の図解も含まれている。
マッシポスト氏には2人の娘があり、若い淑女で知性があり、洗練されていた。彼女たちを野蛮人は最も残酷に殺した。1人の頭部は体から切断され、鉤針を付けられ、釘に吊されているのを後で見付けられた。氏の息子24歳の若者も同じように殺された。マッシポスト氏と8歳の息子はニューアルムに逃れた[18]。
シュワント氏の娘は妊娠しており、腹を割かれて、後で分かったことだが、子供は生きたまま母体から取り出され、木に釘付けにされた。13歳のシュワント氏の息子はインディアンに殴られ、死ぬまでそこにいて悲劇全体を見ていたと想像される。彼は姉のウォルツ夫人の体から子供が生きたまま取り出され庭の木に釘付けされるのを見ていた。子供は釘が打たれた後も何度かもがいた。このことは1862年8月18日月曜日の昼前に起こった[19]。
ダコタ族の追放後、逃亡者や戦士達がラコタ族の土地に向かった。ミネソタ州連隊とラコタ=ダコタ連合軍との間の戦闘は1864年まで続き、ヘンリー・シブリー大佐がスー族をダコタ準州に追い込んだ。シブリーの軍隊は1863年にラコタ=ダコタ連合軍を3度大きな戦闘で破った。すなわち、7月26日のデッドバッファーロー・レイクの戦い、7月28日のストーニー・レイクの戦いおよび9月3日のホワイトストーンヒルの戦いだった。スー族はさらに撤退したが、1864年に再度アメリカ軍と対峙した。この時は、アルフレッド・サリー将軍が近くのピエール砦から軍隊を率い、7月28日のキルディア山の戦いでスー族を完璧に打ち破った。
しかし、これはアメリカ合衆国とスー族との間の最後の戦いにはならなかった。2年のうちに、ラコタ族の土地への侵入によってレッドクラウド戦争を起こし、サウスダコタ州のブラックヒルズを統制したいという願望によって、1876年のアメリカ軍の攻撃行動を促進させ、ブラックヒルズ戦争として知られることになった。1881年までに、スー族の大半はアメリカ軍に降伏し、1890年、ウンデット・ニーの虐殺で実質的なスー族の抵抗を終わらせ、これが合衆国とスー族との間の最後の主要武装闘争となった。
ミネソタ川渓谷と周辺の高地草原地域は戦争の間、大半の開拓者に放棄された。逃亡者としてその農園や家から逃げ出した家族の多くは二度と戻らなかった。しかし、南北戦争の後、この地域には開拓が再開され1870年代半ばまでに農業地帯に戻った。
ローワースー・インディアン居留地がモートン近くのローワースー管理局の場所に再建され、1930年代にはグラナイトフォールズ近くにさらに小さなアッパースー・インディアン居留地が建設された。戦争に反対したダコタ族もいたが、開拓者を助けようとした者達を含め大半はミネソタ州から追放された。ヤンクトン・スー族の酋長ストラック・バイ・ザ・リーはその戦士達を開拓者を助けるために配置したが、戦後直ぐに州内に留まることを許されるほど友好的とは判断されなかった。しかし、1880年代までに多くのダコタ族がミネソタ川渓谷に戻ってきた。顕著なものはグッドサンダー、ワバシャ、ブルーストーンおよびローレンスの一族だった。彼らはヘンリー・ベンジャミン・ホィップル司祭および交易業者アレクサンダー・フェアボールトの保護下に暮らしていたダコタ族の一族に加わった。
1920年代までに、この戦争はミネソタの口承の領域に入り始めた。目撃者の証言は生き残って1970年代および1980年代初期まで生きた人々にまず語り継がれた。苦心して開拓に励んだ農家の無辜の人々や家族がダコタ族に殺されるイメージはミネソタ州南中部の草原社会に暮らす人々の意識に残った[20][21]。