景気循環株

リトル・カノーハで待つこと数日の間に、クラーク達のもとに敵対的なインディアンの部隊が交易業者、測量士やオハイオを旅する人からの略奪と時には殺人を犯しており、ショーニー族を中心とするオハイオのインディアン同盟が戦争をする決意でいると思われるという知らせが届き始めた。このことを心に留めた一行はシオト川の河口近くにあって、ケンタッキーの目的地に行く途中になるホースヘッド・ボトムと呼ばれるオハイオ・インディアンの集落を襲おうと決めた。しかし、事に当たっての問題は、一行のほとんどが戦争の経験が無かったので、誰が攻撃の指揮を執るかということだった。ちょっとした議論の後でクレサップに頼もうということになった。クレサップは一行から15マイル (24 km)ほど上流におり、彼らの後を追ってケンタッキーに入ろうとしていた。また戦闘の経験もあった。クレサップが呼びにやられて直ぐに一行の元にやってきた。また作戦の議論が続いた後で、クレサップは、ショーニー族=オハイオ同盟が確かに敵対的ではあるが、戦争が避けられないと意思表示したわけではない、と言って攻撃を思い止まらせた。クレサップはさらに、作戦を実行すれば疑いもなく成功するだろうが、FX 初心者 に戦争に繋がり、その責を取らされることになるとも言った。その代案としてクレサップは、ホィーリングに戻って数週間成り行きに注視し、事態が収まればケンタッキーへの旅を再開するという提案をした。一行は同意した。 一行がホィーリングに着くと、町全体が大騒ぎになっており、インディアンの襲撃から生き残った者達は恐慌を来して、インディアンの野蛮行為に屈服したことと失ったものについて語った。女子供の生命を危ぶんだ周辺のアメリカ人開拓者が町に防衛のために集まり、クレサップの周りには戦おうという意志のあるもので脹れ上がった。この集団が到着したという知らせがピット砦に届けられ、砦の指揮官ジョン・コノリー大尉は、周辺のインディアン種族にその意図をはっきりするよう伝言を送ったので、ホィーリングに数日留まっているよう伝えてきた。これに対する返事としてコノリーが言う通りにするという伝言が発せられたが、それがピット砦に届く前に、コノリーからの2度目の伝言が入った。その内容はクレサップに宛てて、ショーニー族=オハイオ同盟が戦争をするつもりがあるという合図を送ってきたというものだった。 4月26日に協議集会が開かれ、クレサップがコノリーの伝言を聴衆に読み上げると、戦争が宣言された。次の日、インディアンのカヌーが川で見かけられたので、パイプ・クリークを15マイル (24 km)下って追い掛けてみると、インディアンに遭遇し戦闘になった。双方に数人の負傷者が出た。さらに次の日、クラークの一行はパイプ・クリークでの攻撃に対して報復が予測されるので、ケンタッキーに進むという当初の計画を中止した。クラーク隊はクレサップ隊と合同でレッドストーン・オールド砦のクレサップの本拠に向かった。 ハンソン大尉の日記より(ハンソンは測量士であり、この日、仕事場に行く途中でポイント・プレザントに滞在していた。ハンソンは仲間と共にカノーハ川をカヌーで下っていた数日前にカノーハ・チェロキーからオハイオ・インディアンが戦いの道にいたということを聞きこれを確認する知らせを受け取った。情報源は川を上下する土地の者からだった。) 4月(原文のまま)20日。我々はカノーハ川河口に向かって26マイル進んだ。到着すると様々な身なりの人々26人がいた。土地を耕す人がおれば、測量を行う者もいた。彼らは異口同音にインディアンのことを話した。彼らの中の一人がインディアンの言葉を解したので、フロイド氏と他の測量士が同行を申し出たが、彼は拒み、我々には頭皮に気をつけるよう告げた。我々は河口から7マイルを切るところに盆地を見つけ、そこが奥行きが20マイル、川岸の南は6マイルの幅があって良い土地だと教えられた。我々が人々に会った北の端は砦に向いているようであり、私の考えではそこは他の盆地の場合とは異なり氾濫はしないと見た。フロイド氏と他の測量士はここで人々に歓待された。 パイプ・クリークの事件が起こった直後にミンゴ族のローガン酋長の親戚が殺された。ローガン酋長はこの時点まで、開拓者に対して友好的であった。ローガンとその狩猟隊はホィーリングから上流約30マイル (48 km)のイエロー・クリーク(現在のオハイオ州ストイベンビル)でベイカーズボトムからは川向こう、オハイオ川の西堤に宿営していた。4月30日、狩猟隊の何人か(ローガンは入っていなかった)が、慣習となっていたラム酒の配給を求めて、川向こうのベイカーの酒場に行った。彼らには小さなアメリカ人の子供が随いていた。ローガン酋長が開拓者家族の殺人や誘拐に関わっていたか、あるいはその子供を他のショーニー族=オハイオ同盟から得ていたか何も明らかではない。それにも関わらず、周りの開拓者達に伝言が伝えられた。ミンゴ族の男が酔ってしまった時に、それまで伏せて待っていた開拓者がインディアン全員を殺し、子供を救い出した。殺人を遂行した開拓者は、キングス・クリークの河口近くに住んでいた開拓者ダニエル・グリースハウスの指導で動いた。この知らせがローガン酋長のもとに届いたとき、彼とその仲間はクレサップ大尉がアメリカ部隊の主要な指導者と見なしていたので、この攻撃もクレサップに責任があると信じ込んだ。しかし、この事件に詳しかった者(クラークを含む)がグリースハウスとその一党が攻撃を実行した者であり、先物取引 は全く関わっていないと伝えた。 辺境にある開拓者はこの攻撃によってオハイオの残りのインディアン達がショーニー族=オハイオ同盟に加わり、辺境全体が野蛮な戦争に突入する可能性を実感させられた。辺境に残っていた開拓者は直ぐに安全を求め、小要塞に入るか、開拓地を棄ててモノンガヘラを越えて東に逃げるか、多くの者がアレゲニー山脈を越えて戻った。この恐れは十分根拠があった。ローガン酋長の一族はショーニー族=オハイオ同盟の緩衝帯となっていたものが、先物取引 は立ち上がり、アメリカ人辺境開拓者の大量虐殺に加わり、モノンガヘラから西の開拓地に殺人、強姦、略奪および破壊行動を行った。 1774 - 1774年5月5日、ショーニー族は彼らに送られた弔意と伝言に対し、次の回答書を配って、ダンモア知事と直接話し合うことを求めた。 (原文のまま)兄弟達よ:(コノリー大尉、マッキー氏、クローガン氏)我々はホワイト・アイズから貴方がたの弔意を受け取った。クローガン氏とマッキー氏が言っていることについては、すべて嘘だと見ており、たぶん貴方が言うことも嘘かもしれない。しかし、貴方が我々に話しかけた最初の機会なので、貴方の言うことを聞こう。また我々が貴方の言うことを聞くのは我々が白人から聞いてきたことよりも、真実を語っていることを期待する。オハイオ川を度々上下し、そこに開拓地を作っているのは貴方であり、貴方が前にも告げたように貴方の賢明な人々が共に会してこの問題を相談し、貴方が強く問題を考慮してくれることを望む。同胞よ:我々は貴方がこの川の種々の場所に集めた戦士を率いて我々に話しかけるのを理解する。戦士達が砦を造っているのを我々は理解する。貴方が言うことを聞くように求めたので、我々はそうしよう。しかし貴方が我々に話しかける同じやり方でだ。低地帯の集落にいる我々の同胞には日経225 がいないがすべて戦士であり、貴方の言うことを聞いた方が良いというなら、そうする用意もできる。 「貴方は、貴方の側の人々が我々にしたことを気に掛けるなと言う。我々は我々の若い男達が今するかもしれないことに注意を払わないことを貴方に望む。貴方の戦士達に言うことを聞いて欲しいと望むときは疑いもなく貴方は戦士達を支配できる。我々は我々が望むときに同じ忠告を得ることを期待する理由がある。すなわち、我々はバージニア知事から話を聞けたらばということである。」--American Archives, Fourth Series, Vol. 1. p. 479.] 1774年5月早く、ダンモア知事はオハイオのイエロークリークと他の場所で敵対行動が始まったという知らせを受けた。これに対してダンモアは直ぐに議会に民兵隊を組織し、オハイオ川渓谷に遠征隊を送る費用捻出を要求した。この部隊を率いたダンモアはオハイオ川まで進出しそこで部隊を2つに分けた。1つはダンモア自身の指揮でピット砦からオハイオ川を下る、もう1つは、アンドリュー・ルイス大佐の指揮でユニオン宿営地(現在のウエストバージニア州ルイスバーグ)からグレート・カノーハ川の河口でダンモアと落ち合うというものだった。この全体計画の元で、ダンモアはピット砦に行き、さらにオハイオ川を下って9月30日にフィンキャッスル砦(後のバージニア州ヘンリー砦)に着いた。この砦はダンモアの命令でホィーリングに最近建設されたものだった。ルイスの部隊は、1,100名の兵力で、ユニオン宿営地からカノーハの上流に進み、続いて計画通りの集合地点に向かって川を下った。ルイス隊は10月6日に到着したが、ダンモア卿は既にそこに居なかったので、オハイオ川上流に伝令を送りカノーハ河口に到着したことを知らせた。10月9日、ダンモアからの伝令が到着し、計画通りカノーハ川河口に行く代わりに、その時はホッキング川河口に居り、そこから直接シオトのショーニー族集落に向かうことを伝えた。同時にダンモアはルイスにオハイオ川を渡ってショーニー族集落まで来るように命令を伝えた。 10月10日、ルイス隊がオハイオ川を渡り始める前に、コーンズトーク酋長指揮するインディアン戦士隊に急襲された。ポイント・プレザントの戦いはほぼ終日続き、白兵戦になった。ルイス隊は、ルイスの兄弟を含み200名の損失を受けたが、結果的にオハイオ同盟を打ち負かし、オハイオ川を渡って撤退させた。ダンモアとルイスはそれぞれの地点からオハイオに入り、シオトのショーニー族集落から8マイル (13 km)の地点まで進軍し、シッポ・クリークにシャーロット宿営地と呼ぶ一時的な宿営地を造った。ここでダンモア達はコーンズトークに会って、停戦交渉を始めた。ローガン酋長は戦闘を止めると言っていたが、正式の停戦交渉の場には出席しなかった。ショーニー族は停戦条件を飲んだが、ミンゴ族は拒否した。このためにウィリアム・クロウフォード少佐がシークンクあるいはソルト・リック・タウンというミンゴ族の集落の一つに送られた。クロウフォード部隊は240名の戦力で集落を破壊した。 これらの作戦行動と、シャーロット宿営地でのショーニー族およびミンゴ族の降伏で実際の戦争は終わった。ダンモア知事は直ぐに帰途に就き、レッドストーンとユーギオゲニー川のグレート・クロッシングを経てカンバーランド砦に着き、そこからバージニアの首都に帰った。